とある世界、とある家族、とある私
①話:とある世界の日常
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ここは、とある世界。
いつかの誰かが決めた境界線で
人々の価値も意識も変わる、どこにでもある国。
「この橋を渡ると違う街になるんだよ」と
私が両親に教わったのはもう遥か昔のこと。
今では、かつて住んでいた街が対岸に、
川の向こうには違う街がある事を
私が子どもたちに教えていた。
空へ向かって手を伸ばすような木々が揺れ
心なしか朝の空気は少し冷たく、
でもどこか柔らかい。
私たち家族は、そんな街の片隅で、
3階建ての小さな家に4人で暮らしている。
外から見れば普通だが、
中にあるのは“今”という名の積み重ねだ。
「ふぁぁ……」
あくびが漏れる。
私は目をこすりながらベッドを抜け出した。
47歳、私の名前はシンジュ。
飲食チェーンの会社員として働いている。
世間的には“中堅”と呼ばれる役職なのだろうが
若くても、老いても、
やるべきことはそう変わらない。
自分の中身も年をとった実感のない
いわゆる普通の中年だと思う。
階段を降り、素早く身支度を済ませると
ようやく頭が覚めたのか、
いつもの朝の匂いが鼻をくすぐった。
リビングには出来たてのご飯、
あたたかい味噌汁が置かれており、
どこかのニュースがテレビから流れている。
娘のリオは制服姿で静かに朝食をとっていた。
妻の背中と娘に挨拶をして私も椅子に腰をかける。
私たちが食べ終わる頃、「おはよー」と言いながら、
まだ眠そうに対面の席へつく息子のユウキ。
相変わらず寝癖がすごい。
こうして並ぶ家族の姿は、どこにでもあるようで、
私にとっては、いまだにこの日常が
奇跡のように思える。
リビングからキッチンにいる妻に話しかけると
「腰を下ろすと動きたくなくなるのよ」
と返されるのも、いつものことだ。
家事は仕事だな、と思うと感謝は尽きない。
私の帰りは遅いから夜は妻が必ず子供達と
一緒にご飯を食べていると聞くと、
自分もしっかりしなくては、と思わされる。
リオは18歳、高校3年生。
ユウキは20歳、大学生。
振り返ると日々は早く、輝く過去は遠い。
まだまだ続けたいと願う未来が
妻の作るご飯と共にありたいものだと
思いにふけながら私はいち早く食事を終えた。
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と、こんな日常の続きが、ずっと続くと思っていた。
ただ、この“普通”には、いつからか
ほんの少しだけ“ズレ”が混ざっていると
私は漠然と気づき始めていた。
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②話:リビング
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テレビから流れるワイドショーの音が、
食事の音に重なる。
コメンテーターが何かを深刻な顔で話しているが、
正直、内容は耳に入ってこない。
ユウキはせわしなくご飯をかきこんでいて、
リオは食事も終わり、ソファに移って
携帯電話をいじっている。
「ユウくん、今日の講義って1限からでしょ?
起きるの遅すぎない?」
娘のリオは、いつも通り優しく、
冷静で、芯が通っている。
リオは昔から“ユウキ”に対して厳しい。
大好きな兄が、わかりきった事で
怒られるのを見るのは、
幼心にきっと悲しかったのだろう。
小さい頃からリオは
「こうしたら褒められるんだよ」と
言葉でなく行動で、サインを見せていたように思う。
が、肝心の兄には響かず、お世話を
習慣にしてしまった娘は私も舌を巻くほど
"しっかり者"で"かわいく"育ってしまった。
「ちゃんと間に合うから…
…俺には未来が見えてるから!」
寝癖を気にしながら言い返すユウキは、
相変わらずの調子だ。
黒服に身を包み、どこかストリート系の雰囲気を
漂わせてはいるが、中身はまだまだ隙だらけだ。
「未来ばっか見てると、今に足元すくわれるぞ」
口をついて出た自分の言葉に、少しだけ驚いた。
まるで誰かの受け売りのようでいて、
妙に今の空気にぴたりとハマる。
「それ、パパがママに言われてることじゃん」
リオが即座にツッコミを入れる。
「あ、それか!」
一瞬の沈黙のあと、テーブルの上に笑い声が広がる。
私は小さく肩をすくめて、苦笑した。
そう、確かに妻の言う通りだ。
私は、よく“今”を取りこぼしているらしい。
続けてユウキは笑いながら言った。
「でもまあ、パパが一番
“未来”に生きてる気がするけどね」
あからさまにイタズラな表情だ。
息子のユウキは昔から慎重で臆病な部分はあるが
顔色に敏感で、誰よりも自分が傷つくことや
人が傷つく事を苦手としているように思う。
家族に対する絶対的な安心と
愛情があるからこその"煽り"や"悪態"。
私は内心「こいつ、あいかわらずかわいいな!」
と思いながら
「……それ、老けてきたってことだろ?」
とワザとらしく口にすると、
メイクを確認していたリオがこちらをちらりと見て、
笑いを噛み殺していた。
「…まさかリオも思ってんのか!?」と
私は心の中でツッコミながら優しく語った。
「パパは順調に“今”を積み重ねてるの!」
フォローになっていない自己弁護。
我ながら、なんてことない言葉に
少し必死さを滲ませた名演技の最中、
リビングに突然、無機質な声が響いた。
「7:30です、7:30です」と音声機能を備えた
【ヤレックサ】のリマインダーが鳴り響き
私達の会話を遮った。
「やばっ!遅れちゃう!」とリオ。
「駅まで行くの、、だるっ!」
とユウキも立ち上がり、食器を片づけながら口を開く。
「パパ、明日予定がなかったらご飯食べに行こうぜ」
その声に、リオも嬉しそうに振り返った。
「パパの誕生日なんだから、早く帰ってきてね!」
思わず口元が緩む。
ネクタイを締め、誰も見ることのなかったTVを
消しながら、私は頷いた。
洗濯場からは、妻の好きな音楽が大音量で流れていた。
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朝の時間は短い。
けれど、この何気ない会話や生活の中にも
“未来”の種が転がっているかのように思えた。
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③話:止まない思考
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うはっ!
玄関の扉を開けると、ひんやりとした
秋の朝の空気が頬に触れた。
こうも毎日気温が変わると神経質になってしまうようだ。
「先に行くわ!リオもユウも、気をつけてな」
リビングから「いってらっしゃい!」と
3人の声が重なる。
母として子どもたちの支度の確認も
妻の大事な出番なのだろう。
私は「いってき!」と返すと
自転車に跨り、ゆっくりとペダルを踏み出す。
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マンションの影は長く伸び、朝日に溶け込む。
いつも通る小道。
登校中の子どもたち、ゴミを出す人、すれ違う人。
変わらない風景の中で、私は"1人の人"として
“今”を生きている事を今日も実感する。
まるで自動運転のような時間を迎えると
次々と私の頭の中に言葉が浮かんでくる。
――変わる時代の中で、
穏やかで小さな成長を望んで生きる日々――
駅に着き、自転車を止めると、
電車の到着音がホームに響いていた。
少しのズレでいつもの電車には乗れない。
「仕方ない…」とつぶやくと、私は改札を抜け、
駆け足で階段を進み、混雑する車内へと滑り込んだ。
弾みそうな息を抑えながら吊り革を掴むと、
また意識が深いところへ沈んでいく。
――もしもこの時代を
最盛期の“私”が生きていたら
何を目指していただろう?――
目を閉じると、ベース音が鳴ったような気がした。
仲間と音を重ねていたあの頃の記憶が、微かに蘇る。
今ではAIが歌を作る時代だと思えば
音楽はやっていなかったかもしれないと思う。
電車が駅に着き、波のように人が流れ出していく。
私はその流れに逆らわず、ホームを抜ける。
――運命は切り拓くもの。
平和は守るものではなく、作るもの――
胸の内だけで秘めている思いに飲まれないように、
私はいつものコンビニで買ったカフェオレを
一口だけ飲み込み、再び会社へと歩き始めた。
いつもの交差点に今日も人の波が押し寄せる。
それぞれの“朝”が、
それぞれの速度で街を満たしていく。
信号が制御し、私たちは従い、得られる安心を
何者かの甘さとクラクションが引き裂く。
それも日常の、見慣れた光景だ。
――明けない夜はないってのは、
シェイクスピアが使った言葉――
耳触りのいい言葉も聞き飽きてしまえば
耳障りになってしまうのは、
中身が省かれて消費されてしまうからなのだろう。
――知らずと使い古して、積み重ね、至る今――
平和に慣れると退屈に思う感覚が本能なのだろうか?
平和という願望が見せる幻想も本望なのだろうか?
どうやら今日は思考が止まらないようだな…
と思ったところで信号が赤に変わり、足を止める。
ふと、流れゆく人々の姿を目で追ってしまう。
急ぎ足の人、無表情の人、
一際目立ってしまう人、スマホを見たまま立ち止まる人。
誰もが昨日を越えて今日を迎えている。
私の“今”は 過去に手を振り"さよなら"を。
未来に手を振り"向かおう"としている。
「痛…」
私は急激に痛みを感じた頭を抑えながら
強い違和感を覚えていた。
普段なら"歌にしよう"と考える程度の思考の旅が
今日に限って止まらないからか?
冷や汗が止まらない。
私の異変に気付いたのか、
どこかこの時間の街の空気に
合わない若い男女が声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「どうかしましたか?」
「歩けますか?」
「何か出来ることはありますか?」
交互に言葉を変えながら私を気遣っていることに
気づいていたが
「大丈夫ですよ。頭が痛くなっただけだし、
きっと気圧痛だと思います。
わざわざありがとうございます」と答えてしまった。
余裕がない私には
見知らぬ人を心配させてしまった自分を
煩わしく思ってしまったのだ。
幸いにも目の前の信号が青に変わり、
人の波が動き出す。
私は男女の顔を見て頭を下げると、
人波に紛れ、はぐれないようにと、歩き始めると
後ろから声が聞こえてきた。
「自分の事だけ考えていたなら潰れないよ」
「あなたならね」
ふと振り返るとすでに姿がなかったが
不思議と頭痛も不穏な思考の波も消え、
目の前に通い慣れた会社のビルがそびえていた。
いつも通り、一歩手前で足を止めると
私は自ら思いを巡らせる。
――全盛期の俺が何をしていたかなんて覚えていないけど
24歳位の俺ならどう過ごすんだ?――
きっと未来の憧れ以外の想像がつかなかった頃。
それでも具現化の成功を信じて
飛びこめていたであろう頃の私を思い出すのが
私のルーティーンなのだ。
背筋を伸ばして、ひとつ大きく深呼吸する。
冷たい空気が肺に入り、
脳まで澄んでいくような気がしたら静かに呟く。
「……よし、やるぞ」
スキル成功だ。
こうして今日も、いつものように始まる
――
この時の私はそう信じていた。
正確には信じようとしていた。
明らかにならない違和感に飲まれないように。
――
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