第1章 家族
――家族とは何か?
それは少なからず大きな影響を及ぼす環境だ
①話:シンジュ
――
「……あれ、もう朝か」
目覚ましの音が鳴る前に目が覚めた。
ここ最近では珍しいほど、身体が軽い。
寝起きのだるさもなく、視界もやけにクリアに感じる。
「これがレベルアップした48歳か!?」
と普段なら独り言をつぶやきながら
ニヤけているところだが、まるで身体の内側に
“何かの予兆”が流れ込んでくるような感覚だった。
階下に降りた途端、子供たちの声が重なる。
「パパ…おめでとう!」
珍しくユウキが早起きして待っていた事に驚いていると
「パパ、今日こそ早く帰ってきてよ?」
リオが笑いながら、
寝癖のついたユウキを肘でつついている。
なんとか起きた、もしくは起こされた、
というところだろうか?
それでも嬉しく思いながら私は2人に尋ねた。
「あれ?ママは?」
リオが即座に返事をする。
「あれ?またキッチンに戻ったのかな?」
妻の姿はキッチンの奥から聞こえる生活音に
まぎれていて、顔は見えなかったが、
代わりにリビングには朝食が整っていた。
温かいご飯と味噌汁とベーコンエッグ。
いつもと同じメニューなのに、
今日に限って妙に彩りがあるように見える。
「あれ?パパ、泣いてる?」とユウキが煽る。
泣くわけがない。
あからさまに無視をしようとした瞬間に、
リオが話し始める。
「あれ?パパ、なんかいつもと違くない?
誕生日だから神様が若返らせたとか?」
…リオ、お前もか!
と私を煽る2人を見ると何かが違う。
リオはピンク、ユウキは赤。
2人の黒髪に入ったメッシュが強く主張している。
……が、なぜかそれに言及する気は起きなかった。
「そういえば、前からこんな色だったっけ?」
という違和感。
まるで“誰かが演出した”ような
鮮やかな色だけを頭に残して私は玄関を出ていった。
自転車のペダルをこぎだすと
空気は冷たく澄んでいて、
駅までの道を滑らかに通り過ぎていく。
家族の「いってらっしゃい」の声が
家から少し離れたところまで聞こえてくる。
そんな気がして
私は振り返ってみたが誰かがいるわけもなく
いつもの光景がほんの少しだけ、
夢の中のように遠く感じていた。
…正確には街に誰もいない事に
気づくことさえ出来ていなかった。
――全てが“いつも通り”で、
その実、いつも通りではなく
私の意識はどこかに浮いていたのだろうか?
会社のあるビルに着いたのはいつも通りの時間だった。
受付に顔を出し、セキュリティゲートを抜けて
エレベーターに乗る。
ドアが閉まりかけたその瞬間、
「すみません」と声がして、
若い男女がすべり込んできた。
黒い髪に少しパーマのかかったオシャレな青年と、
柔らかな表情の女性。
二人とも、少し大人びて見えるスーツ姿。
(……あれ、誰だっけ?)
私は記憶を探るが、社内で見かけた覚えはない。
だが、エレベーター内で他の社員たちは
普通に挨拶を交わしている。
「リョウくん、昨日の提案書、ありがとう」
「いえ、マイがまとめてくれたおかげです」
“リョウ”、“マイ”という名前。声。立ち姿。
どこかで……いや、昨日、何か会話を
交わしたような記憶が、うっすらとある。
でも、その“記憶”がどこから来ているのかを掴めない。
私は静かに息を吸い、問いかけようとした。
「君たち、どこの部署……」
だが、その言葉はなぜか口から出てこなかった。
まるで、声を出せない夢の中にいるかのように。
そうして彼らは私の一つ下の階で降りていき、
私は一人、取り残されたような感覚で
ドアが閉まるのを見つめていた。
――もしも命を点に例えたら、
私は今、どこにいるのだろう?
違和感は、確かに“ここ”にあるのに
私は知る必要があるのだろうか?
その答えを見つけられずにいた。
――
②話:ユウキ
――
「やっぱコーヒーはブラックだよな?」
昼休みの学食。
ユウキがトレーを片手に空席を探しながら、
斜め後ろの青年に軽口を投げかけていた。
その青年――リョウは、静かな笑みでユウキに答える。
「ミルクをたっぷり入れたカフェオレがいいな」
ユウキは驚いた顔を隠しもせず
リョウにカフェオレを手渡しながら言う。
「え?意外だわぁー。リョウって
人前ではカッコつけるタイプじゃないとダメでしょ!
イケメンなんだからミルクは家で
こっそりたっぷり入れなさいよ!」
リョウは笑いながら答える。
「どれくらいの黒と白が混ざると
こんな色になるのか…君なら分かるかい?
とか言っておけばいい?」
ユウキはたまらず言う。
「想像を超えてくんのはやめろ、リョウ。
この国の人口が減りかねない位に
カッコつくのは直ちにやめてくれ!」
リョウはいつの間にか目の前に座っているユウキに
笑いながら言う。
「そんなことよりバイトの件、考えてくれた?」
ユウキは真剣な顔でうなづく。
「そのカッコよさを学ばせてください、リョウ先輩!
そしてお金を稼いだら俺を直ちに
コーディネートしてください!」
「おおげさだね」
そう言って笑う白が似合う女性――マイが
ユウキの隣の席にそっと腰を下ろす。
リョウとマイ。
同じ大学に通っている同い年であるはずなのに、
ユウキの視点からすれば
「ちょっと浮いてる2人」だった。
どこか落ち着きすぎていて、同年代とは思えない。
こうやって話せるようになったのは
リョウからバイト先の紹介を
突然持ちかけられたのが始まりだった。
「……でもまあ、ありがとね。
知ってる人が2人もいるのは安心感があるし
最近ちょっと金欠だったから、ほんと助かるよ」
リョウは笑いながら返事をした。
「ううん、役に立てて嬉しいよ。
ユウキは、意外と手先も器用そうだし」
ユウキは誇らしげな顔で言う。
「俺のゲーマー歴なめてんの?
意外と何でも出来過ぎマンだと驚かせてやんよ!
…うん、ほんとよろしくお願い申し上げます」
マイとリョウの笑顔に軽く肩をすくめながらも、
ユウキの顔には安心しきった空気が漂っていた。
昼の学食は、他愛もない会話とざわめきに満ちている。
そんな中、ふと、マイが空を見上げるような仕草をした。
「……今夜、世界がひとつ変わる日に
なるかもしれないね」
その言葉は、不意に落ちてきた雪のように静かだった。
ユウキは口に運ぼうとしていた唐揚げを
お皿に戻しながら眉をひそめる。
「え? 急にどうしたの? スピリチュアル的なやつ?」
「どうだろう。少なくとも、誰かにとっては――
とても大切な日になるかもしれないって思ってるだけ」
マイの言葉は笑っているようで、
どこか遠い場所を見つめている。
不思議な流れの空気にたまらずユウキは
無理に笑いながら言葉を紡ぐ。
「まさか俺の親父の誕生日を知ってんの?」
すると、リョウが口を開く。
「俺たちにできるのは、ただ見守ることだけだよ」
「ん? やっぱ何の話?」
ユウキが首を傾げるが、
二人はそれ以上なにも言わなかった。
食堂の時計はゆっくりと午後の時を刻んでいた。
――
③話:リオ
――
「んー……やばっ!なんなのっ!?」
放課後、午後の陽射しが差し込む廊下のベンチ。
制服姿のリオがチョコチップクッキーをほおばって、
目を見開いた。
目の前に立つリョウが、リオに袋ごと差し出す。
「それ、僕の手作り」
「えっ、ガチ? なんで女子力53万もあるの?」
「今の時代に女子も男子もないってことだよ」
本気なのか冗談なのか、はたまた
どちらでもないような笑みを浮かべてリョウは答える。
リオは「ふーん」とだけ返し、
もう一枚クッキーを取って頬張った。
「え?ガチうまっ!やばっ!
……で、無言のマイはどう感じてるの?」
リオが隣に座るマイに話しかけると、
マイは目を凝らして、じっとクッキーを見つめている。
それを見て、リオが吹き出した。
「推し活か!そんなに見つめたら、
もっとクッキーが尊くなるんだから、
さっさと食べ終えて40秒で支度しな!」
リオに言われるとマイは
名残惜しそうにクッキーを見つめたと思いきや
一口で口の中に放り込み静かに咀嚼する。
それを見たリオは堪らず口を開いた。
「一口で?おマイの戦闘力は53万か!」
――
校門へと向かう3人。
部活動の声が遠くに聞こえ、周囲には誰もいない。
別れを惜しむ時間が、ゆっくりと流れていた。
ふとリオはマイに尋ねる。
「マイもお菓子作るの得意でしょ?」
「……もし自分で“フフフ、得意ですよ!”って言ったら
私のことをまた53万って呼ぶでしょ?
リョウはまったく助けてくれないし……」
苦笑いを浮かべるリョウに、
すかさずリオが切り込む。
「今、“なんかおかしなことになったな、
おかしなだけに……”って思いましたよね!?
マイ裁判長、リョウ被告人の証言を申請します!」
「却下します。おかしいのはアナタだけです」
マイが笑いながら即答し、リオは
「なっ!?」と変顔で抗議し、
その顔に、3人の笑い声が校舎から反響する。
門を出れば別々の帰路。
それでも足を止めずに、リオは会話を続けていく。
「マイの作ったお菓子、食べたいなぁ。
こないだグミあげたし」
ユウキ譲りの上目遣いでマイを見つめるリオに、
マイも負けじと笑って返す。
「私はいいけど、
それならリオの作ったお菓子も食べてみたいな」
一瞬、リオの表情が揺れる。
何かに気づいたリョウが口を挟んだ。
「リオさんはグミしか食べない生き物だと思ってたけど、
僕のクッキーならまた作ってくるよ」
リオは苦笑いでうなづき、
少しうつむきながらぽつりと語り出す。
「私、人の好みまで深く考えちゃってさ……
途中で作るの嫌になっちゃうんだよね。
だから、誰かに与えられるだけの人間なの。
でも来世は、人に与られる存在になろうと思うんだ!」
そう言って顔をパッと上げた瞬間、
リョウとマイはポカンとした顔で立ち止まっていた。
やばっ。久々にやった――
と内心でリオは焦った。
自分語りはよくないってパパが見せてくれてるのに。
――
時刻は午後5時。
すっかり陽は傾き、校舎も3人も朱に染まっていた。
顔を見合わせたリョウとマイは
(この子、たまに理解できないことを言うよね)
と目で会話を交わし、
そのままマイが口火を切った。
「……あ、そういえば今日、
リオのお父さん、誕生日だよね?」
即座にリオの表情が一変する。
「……言ったっけ?」
「うん、知ってるよ。顔に書いてある!」
リオは思わず両手で頬を押さえ、
「えー、かわいい顔に
ハッピータトゥーが彫られてたかぁー!」
とおどける。
そこへ、リョウが真顔で言葉を重ねた。
「ユウキくんが、前に話してた気がするよ」
……ユウキとリョウに面識があるはずがない。
だが、リオは特に気に留める様子もなく、
遠くを見つめながらつぶやいた。
「そっかー。パパはもう48歳かぁ」
マイはリオの横顔を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「…お父さん、優しいよね」
「え?」
「リオが“パパ”って呼ぶたびに、
私はちょっと羨ましくなるの」
リオはきょとんとした顔で
「……なにそれ?」と笑う。
その笑い声を聞いていたリョウが、
ゆっくりと口を開いた。
「その優しさは、強さなんだと思うよ。
誰よりも多く、何かを飲み込んできた人にしか
持てないものだから」
「つまり、チョコが入ったクッキーが最強ってこと?」
リオが狙いをつけてツッコミを入れると、
リョウは照れたように笑いながら、
クッキーをもうひとつ、リオへと差し出した。
――
チャイムが鳴る。
校内放送が流れ、リオはクッキーを受け取ると
笑顔で宣言する。
「じゃあ、わたしは帰って
パパを宇宙一幸せにしてくる!
せめてひとつくらい、喜ぶ料理を作ってあげたいし
また明日ね! あ、今日もありがとう!」
そう言い残して、リオは手を振りながら、
すごい勢いで家へと駆けていった。
リョウとマイは、その姿をしばらく見送ったあと、
赤く染まる夕暮れの中、
どちらからともなくぽつりとつぶやいた。
「……もうすぐだね」
「うん。……もうすぐだね」
ふたりの声は、誰に届くこともなく、
放課後の静けさに溶けていった。
⸻
④もう1人?
⸻
PM7:15
「なんとか帰って来れた……」
会社から駆け足で戻ってきたせいか、
玄関先の灯りを見た途端、
思わず安堵の声が漏れてしまった。
息を整え、なぜか緊張しながら
ゆっくりと玄関のドアを開ける。
あたたかく優しい匂いが一瞬で私を包み込む。
いつもより多めのバターで炒めた玉ねぎの甘い香り。
――――これは私の大好物のハンバーグだ!
靴を脱ごうと足元を見ると、
子供たちがドタバタと帰ってきた形跡が
そこかしこに残っている。
靴は散らかり、玄関マットがズレている様子に
否が応でも、期待が高まる。
「おかえりー!」
3人の声は重なり、リビングから足音が近づいてくる。
迎えに来たのは2人だけだったが、
ユウキは私のカバンを持ち、
リオが私の手を引いてリビングへと誘う。
テーブルの中央にはホールのショートケーキ。
その上には“4”と“8”のローソクが立っていた。
「パパ、見て! ユウが“84”にしようとしてたけど、
ギリ、回避したから!」
リオが誇らしげに親指を立てる。
「どっちも変わんねーよ!」と
ユウキがすかさずリオにツッコミを入れるが、
幼い頃から変わらない優しい笑みを浮かべて、
ユウキは私を見ていた。
私はスーツを脱ぎながら、視線でキッチンを探す。
「……あれ?ママは?」
「洗濯してるのかも。なんか音楽を爆音で聴いてたよ」
ユウキがそう言って指を差した先。
脱衣所の奥から、懐かしい音楽が確かに聴こえてきた。
私と妻が出会う前から
お互いがよく聴いていたロックバンドの曲だ。
あれを流す時は、機嫌がいいのか、
心を落ち着けたいかの、どちらかだけど。
私が部屋着に着替えてリビングに戻ると、
食卓にはユウキが手伝ったらしきカレーと、
リオが作ったハンバーグが用意されていた。
誕生日だからといって
クリスマスパーティーのような
豪華な料理が沢山並ぶわけではないが、
これ以上に特別な意味を持つご馳走はない。
じゃがいもがやたら大きかったり、
私の分だけ人参がやたら多かったり――
カレーの盛り方ひとつに、ユウキらしさがにじむ。
そして、明らかにハートを意識した形の、
一際大きなハンバーグ。
狭いキッチンで“ママ”という
我が家最強の助っ人を頼りながら、
兄妹が小競り合いと奮闘の末に作ったのであろう光景が
目に浮かび、思わず泣きそうになる。
……が、ユウキのしたり顔を見た瞬間、
涙は一気に引っ込んでしまい、
私はすかさず料理を携帯のカメラで記録する。
カシャッ。
そのタイミングで、子どもたちが仕切り始めた。
「じゃあ、食べよっか!」とユウキ。
「先に、プレゼント!」とリオが待ったをかける。
差し出されたのは、
ワイシャツとネクタイ、そして小さなファイル。
ファイルの中には、1年間の家族写真と、
三人からの手紙が入っていた。
便箋の形も、文字の大きさも、
手紙の書き方もバラバラで、
どこか恥ずかしそうに綴られている。
私に目の前で読ませておきながら、
リオもユウキも、うつむいて耳まで真っ赤だ。
……もしかしたら、
私が涙ぐんでいたことに気づいていたのかもしれない。
なのに読み終わった直後、
二人そろって私の目元を確認してくるのは、
ちょっと嫌だった。
ユウキに至っては、読み始める前に
静かに私の目の前にティッシュのボックスを
二箱も置いていた。
ユウキには後ほど「48歳になった私の恐ろしさ」を
思い知らせてやろうと思ったが、
そんなことを考えたせいで
またしても泣けなくなってしまった私は
また後でひとりで、ゆっくり読もうと思った。
……妻からの手紙も一緒に受け取ったが
なぜか、開く気になれなかった。
それどころか、なぜか今、
この場に“ママがいないこと”を
誰1人として気づいていなかった。
そして――リオだろうか?
リビングの照明が落とされ、
ケーキの上、ローソクに火が灯される。
この順番だとせっかくのカレーとハンバーグが
冷めちゃうよ……と、内心焦る私の気持ちをよそに、
「じゃあ、パパ。
自分のためだけのお願いごとをしながら吹き消して」
そう声が聞こえると
リオが少し照れたように笑い
ユウキも私を見てうなずいた。
……今の、リオの声じゃなかったような?
……けど、まあ、いいか。
私はローソクの炎を黙って見つめる。
時間の流れも、家族の姿も、
すべてが闇に溶けていくようで、
まるで浅い眠りのように意識が途切れはじめていく。
揺らぐオレンジ色の光が、
風もないのに揺れては止まる。
私は―― おそらく目を閉じていた。
私は―― 無意識に、揺れていた。
願いごとが少しも浮かんでこない。
「欲しいものは?」
「叶えたい未来は?」
「守りたかったものは?」
炎が、心を映して揺れている。
「無理に消さなくてもいいよ」
再び誰かの声が、遠くから聞こえた。
私は―― ふっと意識が暗転するような感覚に襲われる。
心も、身体も、幸せも、ここにあるはずなのに……
私は、どうやら深い場所に落ちていくらしい――
私は――
まるで何かに抗うように、大きく息を吸い込んだ。
――
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